植田美津恵の「楽に死ぬための10の方法」

医学博士・医学ジャーナリスト 植田美津恵の書き下ろしエッセイ。月に1~2回連載します。

世界の「安楽死」

気鋭のジャーナリスト、宮下洋一氏の「安楽死を遂げるまで」は、安楽死が認められている世界各国の安楽死の実際をルポした力作です。恐らく、これほどまでにリアルな安楽死を描いた著書はほかには見当たりません。

 

スイス、ベルギー、オランダ、スペイン、アメリカ(一部の州)、日本…。ただし、日本では安楽死は認められていないので、過去に患者を安楽死させたとして罪に問われた医師たちを取材しています。

 

スイスでは、安楽死を希望する患者に、鎮痛麻酔薬を混入した点滴を打ちます。ストッパーがかかっているため、針を刺したときには薬剤は体内に入っていきません。患者がみずからストッパーを外すことで、薬剤はたちまち体内に吸収され、あっという間に死に至ります。このように、患者がみずから命を絶つことを助ける方法は、「自殺ほう助」と呼ばれています。

 

安楽死が認められている国であっても、簡単にそれができるわけではありません。膨大な書類を事前に用意する必要があり、また本当に死を迎えてもいいのかという確認作業が何段階にもわたって続けられます。中には、安楽死に強く反対する医師たちもいます。

 

宮下氏は、安楽死に立ち合い、ほんの数分前まで楽しかった思い出を語っていた女性が、みずからの意思で帰らぬ人となることに激しく動揺します。彼はそれを「他人に見守られながらの自殺」と表現しています。そして氏は、自分にできることはなかったのか、彼女の行為を止めることをしなくて良かったのか、と後悔と自責の念に駆られるのです。

 

また、オランダでは、親しい人々と最後のパーティを開いた後、麻酔系の薬と沈静系の薬を医師の手によって注射され、心停止に至った男性が登場します。こちらは、医師による注射で命を絶つことから、「積極的安楽死」と呼ばれている方法です。

 

安楽死を望むのは、がん患者ばかりではありません。精神疾患や難病、うつ病の患者が安楽死を選んでいます。そして、氏は丹念な取材を続け、そこに至る背景と残された家族たちの赤裸々な声を次から次へと書き綴っていくのです。

 

いずれも、安楽死の現実と宮下氏の率直な思いが詰まった、とても「濃い」内容です。

 

いまは死に関心がない人も、いずれ死から逃れられないことを悟ったときに、手に取ることをお勧めしたい一冊です。

 

宮下氏は、日本最初の安楽死事件として、1991年に起きた東海大安楽死事件を挙げています。まだ若き医師が、苦しむ患者の家族に強く頼まれ、やむなく塩化カリウムを注射し死に至らしめたとされ、殺人か否かと騒がれた事件でした。家族の証言との不一致や齟齬などがあり、結果的にこの医師は、懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受けました。

医師が直接手を下した安楽死事件として、大きな反響を呼んだ事件ですが、一時的に盛り上がった安楽死をめぐる議論も、いつの間にか尻切れトンボで終わったしまった感があります。

 

医師によらない、家族の手による安楽死をめぐる裁判は過去にもあり、そのひとつが1949年の「母親殺害事件」と呼ばれているものです。

 

脳卒中で全身が動かなくなった母親に執拗に頼まれ、青酸カリを飲ませた息子が殺人罪に問われた事件でした。この母親は在日朝鮮人で、戦後国に帰ることを楽しみにしていましたが、病気でそれが叶わなくなり、生きる希望を失ったのです。これは安楽死ではなく、嘱託殺人であるという検察側の言い分と、あくまで安楽死だと主張する弁護側が法廷で激しく闘いました。

 

この息子には、懲役1年、執行猶予2年の判決が下されました。

安楽死を論じる法律がなかったために、刑法の枠組みの中で論争が繰り広げられた結果でした。

 

当時は、これほど長寿の国になるとは想像がつかず、安楽死を国レベルで考える土壌のなかった時代です。戦後の復興と経済の発展を必死に目指していた頃のこと、この事件を深く掘り下げて国民の関心を喚起させるには至りませんでした。

 

それから70年、今ようやく、私たちに、自分の生き方や死に方を考える余裕ができたといっても過言ではないでしょう。

 

いいか悪いかという類のことではありません。

結論は出ないにしろ、「死に方を自分のこととして考える」―それがいま私たちに問われているのだと思います。

安楽死と尊厳死

先ごろ、脚本家・橋田寿賀子さんの「安楽死宣言」が話題になりました。

ズバリ!「安楽死で死なせてください」のタイトルで新書も発売されています。

 

多くの人が、無駄な延命治療は避けたい、と口にする時代になり、橋田さんのような願いを明らかにする人が出てもおかしくはありません。好意的な気持ちで受け止めていましたが、最近、橋田さんは「安楽死はあきらめた」「日本では難しそう」と公の場で話すようになりました。

 

いったい、これはどうしたことでしょうか。

 

まずは、マスコミにおいても使い方が混乱している「安楽死」と「尊厳死」について、きちんと押さえておく必要があります。

 

今年2月、カトリック教徒の国イタリアで尊厳死を認める法律が施行されたニュースが報じられた際に、読売新聞が両者の定義に触れていますので、それを紹介しましょう。

読売新聞によれば、

尊厳死」は、患者の意思に基づき、生命維持治療の停止や不開始により患者を自然に死に至らせること。

安楽死」とは、苦痛を訴える患者に医師などが致死薬などを提供することで死期を早めること。

 

…となっています。

つまり、尊厳死は、まさに無駄な延命治療をやめて、患者を自然に死なせてあげましょう、という意味。一方、安楽死は、人為的に(医師によって)死期を早めてしまうこと、になります。

さらに付け加えれば、尊厳死があくまで自然に死を迎えるのに比べ、安楽死はわざわざ死に至らしめるための操作を施すことで不自然な死という含みを持ってしまうのです。

 

橋田さんは、単に皆に迷惑をかけたくない、その時が来たら自分で納得した上で死んでいきたいという思いを表明しただけのこと。つまりは尊厳死を望んでいたのです。

 

このコラムは、最終的に「楽に死ぬための必要条件」の提供を目的にしています。そこに至るまでの、死をめぐる様々な状況について考えてみようと、色々な視点でテーマを設定して書き綴っています。

一口に「楽に死ぬ」といっても、それがどういう意味か、は人によって異なっているであろうことも視野に入れて書き進めています。

安楽死」を目指すのではなく、「楽に死ぬ」ことを目指す。

そう考えれば、橋田さんの主張も決して非難されることはないはずです。

 

橋田さんの著書「安楽死で死なせてください」に「ディグニタス」というスイスの団体が登場します。日本では「自殺ほう助団体」とか「尊厳死ほう助団体」と訳されています。

正確には「自殺をほう助することによる尊厳死を目指す団体」と言うべきだと思うのですが、それはさておき、日本では違法とされる「安楽死」ができるとみなされ、世界中から注目を集めていて、橋田さんもその著書の中で、死ぬときはスイスのディグニタスに行きたいとはっきり述べているのです。

 

楽に死ぬことを追求するために、引き続き、この「安楽死」について、もう少し考えてみたいと思います。

「ラスト・ドライブ」のことードイツ発最期の願い(後半)

「願いの車」で最後のドライブをするのは、海や湖などの場所へ行く人ばかりではありません。

「自分の家へ帰りたい」と思い、「願いの車」を依頼する人もいます。人生の最期、場合によっては自宅へ帰ることさえ困難であることが、このことから伺えます。

 

日本でも、最期は家で、との国民の願いを叶えるべく、数年前から在宅医療に力を入れてきました。ここ数十年、生まれるのも病院・死ぬのも病院という人が大多数を占めているのが現実です。

何の疑問もなく、人生の始まりと終わりを病院任せにしてきましたが、本当にそれでいいのかという思いが表面化してくるとともに、終末期医療には莫大なコストがかかり、それが国民医療費に反映することから、国も最期は家で迎えることができるよう、本腰を入れ始めました。ただし、そのためのインフラ整備や国民の意識はまだ熟しておらず、理想は遠いままですが…。

 

「ラスト・ドライブ」の最後の登場人物は、50歳になるトレステンです。

1年前にがんが発覚。原発胃がんでしたが、脳や肝臓・、肺など全身に転移した、まさに末期患者です。50歳とはいかにも若い。同じ職場の恋人と結婚を考えていましたが、今やそれも叶わぬ夢となりました。

ひとりでは起き上がることもできないトレステン。

彼のラスト・ドライブの行き先は、「ウンターバッハ湖」。デュッセルドルフから車でほど近い、とても美しい湖です。そこは、仕事が終わった後、毎日のように婚約者とデートをした思い出深い場所でした。

当日、スタッフが入院先のホスピスまで迎えに来てくれます。ストレッチャーのまま車に乗り込み、途中婚約者の職場に寄り、彼女と合流。トレステンの主治医も同乗し、湖まで車を走らせます。

湖畔のカフェにはすでに連絡済みですが、スタッフは、カフェで食事をしていた他の客にも、「願いの車」の説明をし、理解を求めます。

ビール、ワインに加え、大盛りのグリーンサラダに手を伸ばし、おいしそうに頬張るトレステン。前半で紹介したマグダレーネもそうでしたが、とても末期がんとは思えない食欲です。そばに寄り添う婚約者もひとときの安らぎを楽しんでいるかのようでした。

 

トレステンは、若いだけあって、時に悔しさをにじませます。

結婚もしたかったし、やりたいことはたくさんあったと。

 

「もっと、生きたかった。それが一番の願いだ」

 

淡々とした笑顔で話すトレステン。

 

湖畔のカフェで、婚約者の女性は語ります。

「彼の病気で、何もかもが変わってしまった。思い描いていた未来はすべて消えてしまった。でも、前より彼を愛しています。それだけは変わらない」

 

そして、

「(このカフェの中で)私たちは一番幸せね」

「また、来ましょうね。今度は外のテラスに座って。きっと来れるわ」と言い、

彼にそっとキスをします。

 

それが叶わない夢だと誰もが知っているのに、彼女の言葉に頷くトレステン。

寄り添う二人の姿の美しさに、胸が痛みます。

 

それから24日後に、トレステンは息を引き取ります。

 

後悔や思い残したことがあると、死を受け入れることはできません。

死を受け入れることができなければ、楽に死ぬことはできません。

 

死期の迫った患者に、後悔のないよう、最後のドライブを提供する、この試みは、「楽に死ぬ」ために、欠かせないと思いました。

しかし、日本ではこのようなシステムはほとんどありません。

ドイツでさえ「願いの車」はボランティア団体によって運営されているのです。

 

死を迎える場所だけでなく、死を迎えようとする人に何が必要か。肉体的な苦しみや精神的な辛さを回避して、その人らしい死に方をするにはどうしたらいいか。

 

そのヒントのひとつが「ラスト・ドライブ」にあったのです。

「ラスト・ドライブ」のこと ー ドイツ発最期の願い(前半)

 私が、このブログを書くことを決めたのは、「ラスト・ドライブ」というドキュメンタリー番組を見たことがきっかけでした。

 ドイツの北西部の町、エッセン。

 番組は、「願いの車」と書かれた車が颯爽と走っている場面から始まります。 

 「人生の最期のとき、人は何を思いどこへ向かうのか」

というナレーションとともに。

 「願いの車」は、文字通り余命の限られた患者の願いを叶えることを目指す民間団体によって運営されています。

 3人のスタッフと80人のボランティアで構成され、これまで何人もの患者の願いと向き合ってきました。

 冒頭に登場するのは、84歳になるがん患者、マグダレーネです。気管支がんが脳に転移を起こしつつある末期患者ですが、彼女の最期の願い、それは「海に行くこと」と「北京ダッグを食べること」でした。

 ホスピスから連絡を受けたスタッフは、早速彼女の願いに応えるため、ホスピスの職員と打ち合わせをします。

 日程や、どこの海に行くのか、同行するボランティアを誰にするのか、具体的な話し合いが行われます。登録していたボランティアの中から選ばれたのは、終末期医療の看護師だった女性、引退したソーシャルワーカーの男性、救命士の男性の計3名。

 風の強い日に、マグダレーネを車いすのまま「願いの車」に乗せ、片道250㎞ 先の海に向かいます。

 末期患者といえば、寝たきりのまま酸素チューブやドレーンにつながれ、意識もほとんどない姿を想像する人も多いのではないでしょうか。

 しかし、マグダレーネは、移動こそ覚束ないものの、歩行器で歩き、たばこを吸い、言いたいことを口にします。かろうじて末期の状態であることがわかるのは、車の中でモルヒネのせいで喉が渇くと訴えるシーンだけです。

 海辺のカフェには、砂浜でも動かせるよう、専用の車いすが用意されています。それは、前もって打ち合わせをしていたわけではなく、カフェには以前からよく似たような患者が訪れるために、彼らが砂浜で過ごせるよう、より近いところで海が見れるよう、準備されていたものでした。

 砂浜でもたばこを吸うマグダレーネ。

 彼女のがんが元々気管支から発生していることから、きっと若いときからヘビースモーカーだったのでしょう。でも、誰もそれを咎めるどころか、むしろ率先して彼女が吸いやすいように強風から守ってあげたり火をつけてあげたり、するのです。

 日本の狂信的な禁煙運動家には、いかなる状態でもたばこを吸わせないと豪語する人がいますが、いかにそれが空しいことか、よくよく考えてもらいたいものだと思います。

 カフェの次に出かけたチャイニーズのレストランでは、希望通り北京ダックを口にします。スタッフらと4人で興じながら北京ダックを頬張る姿は、とてもがんの末期患者とは思えません。

 

 死んだ夫が浮気を繰り返していたこと、姑の世話もしたこと、貯金がなかったこと…、つらかった思い出を、初めて会ったボランティアスタッフ相手に滔々と打ち明けます。そして、

 

 「皆、死んでしまった。でも、私は生きている」

 

と、マグダレーネは堂々と胸を張って話すのです。

 

 海への「ラスト・ドライブ」から1週間後、同行したスタッフのひとり、元ソーシャルワーカーのペーターは、愛犬とともにマグダレーネの元を訪れます。犬を見たら、きっと喜んでくれるだろう、他に何か希望があったら叶えてあげたい。そう考えて自分の車を走らせます。

 ところが…。

マグダレーネは、それを拒否するのです。

 ―もう、何も希望することはない―。

そう言いながら、頭を墓地の方向に向けました。

死を受け入れたマグダレーネ。その前で、ペーターも、テレビの前の私たちも成す術のないことを思い知らされるのです。

 

 それから10日後にマグダレーネは息を引き取ります。

ラスト・ドライブから17日後のことでした。

 

死を受け入れた人間の強さと潔さがこころに残りました。

そして、そうさせたのは、間違いなく「願いの車」、つまり最期の夢を叶えたラスト・ドライブがあったからこそ、なのだと思います。

 

―後半に続きます。

突然訪れた「死の瞬間」の平穏なひととき

現在、日本人の死亡原因のトップは「がん」。

2位が「心臓病」、3位が「肺炎」、4位が「脳卒中」です。ここまではよく知られている病名ですが、では、5位は?6位は…?

平成二十七年の厚生労働省の発表では、5位が「老衰」、6位が「「不慮の事故」です。

このブログは、病気で亡くなるケースを前提にしていますが、当たり前のことながら思いがけぬ事故で命を落とす人も少なからず存在します。その数およそ3万8千人、死亡総数の3.0%を占めています。

では、「不慮の事故」の内訳は何でしょうか。

多い順に、「窒息」「転倒・転落」「溺死および溺水」「交通事故」となっています。ちなみに不慮の事故に「自殺」「殺人による死亡」は含まれていません。

 

マシューオライリーというアメリカの救急救命士がいます。

救急救命士とは、事故や病気などで死の危険が迫ったり、あるいはそれに準じた状態の時に救急車にてしかるべき医療機関に搬送する役目を持つ人々のこと。救急救命士になるには、国家試験に合格する必要がありますが、今や男性ばかりではなく女性にも人気の高い医療職のひとつです。

マシューは、救急救命士として、多くの人々の死にゆく場面に遭遇しました。救急車の中で行われる救急処置の功なく亡くなっていくのを見るのは想像を絶する辛さがありますが、彼はその経験の中から、まさに命の灯が消えようとするその瞬間の人々について、とても興味深い話をしています。

 

「私は死ぬの?」

死を察した時に、しばしばこのような質問がマシューに投げかけられます。その時に、本当のことをいうべきかそれともウソを口にすべきか、長い間マシューは迷っていました。もし、本当のことをいえば、人は絶望し、さらに苦悶に喘ぐのではないか。そのことを恐れ、真実をありのままに伝えることはできなかったといいます。

ところがある日、バイク事故を起こした青年から、このセリフが放たれました。

「僕は死ぬの?」

マシューは、はじめて正直に答えます。

「あなたはすぐに死にます。そして私にできることは何もありません」と。

その瞬間、彼はその目の中に安らぎをたたえ、死を受け入れた様子をはっきりと見せたそうです。

 

その後、マシューは同様の事態に遭遇したときに、ウソを言うのをやめ、常に真実を伝えるようにしました。

すると、ほとんどの人は同じ反応を示したそうです。

 

「安らぎ」と「受け入れ」です。

 

マシューが出合ったのは、その多くが緊急事態における突然の死、です。

当人にしてみれば、ほんのさっきまで死を意識せずに当たり前のようにしてこの世に存在していたはずです。それが事故や災害によっていきなり死に直面した、いや、否応なく直面させられた。死の準備など考えもしなかったでしょう。

ところが、はっきりと「あなたは死にます」と言われ、それを瞬時に受け入れる…。

にわかには信じがたいことです。

しかし、マシューははっきりとこう述べています。

 

「一般的に、死の瞬間は安らぎと受け入れることで満ちている」と。

 

「死を受け入れる」こと。

 

それこそが、まさに「楽に死ぬ」ことの必須条件だと、マシューは教えてくれているのではないでしょうか。

お迎え体験を待つ

お迎え体験、あるいはお迎え現象を知っていますか?

死期が近づいたときに、すでに亡くなった自分にとって近しい人が、迎えに来てくれるという体験です。

医師や社会学者らが2007年に行った有名なアンケート調査があります。

遺族を看取った700人に対し、「患者が、他人には見えない人の存在や風景について語ったり、感じていたりした様子はなかったか」と尋ねる調査票を送ったところ、366人から返答がありました。そして、そのうちの42.3%が「あった」と答えたのです。

具体的には、(死んだ祖母が)ひとりでブツブツ誰かと話しているので、誰と話しているの?と聞くと「死んだおじいさん」と答えた、とか、亡くなった両親が部屋の隅にいた。あるいは、7年前に死んだ友達が来てくれた、などなど。すでにこの世にいない人が身近に来て、語り合ったり、触れたりしたというものでした。

皆さんは、どう思うでしょうか?

そんな事はあり得ない?

夢でも見たんでしょう?

薬で幻覚が見えたんじゃない?

…でしょうか?

実際、医療界の間では、「せん妄」といって、お迎え現象は亡くなる前の意識障害のひとつとみられていたのです。医療に携わる者の最も良くない思い込み…、それは、目の前で起こっていることや患者の発している言葉が、馴染みのない、わけのわからないものの場合、それらを病気の症状として片づけてしまうところです。

例えば、急に人が変わったように振る舞う人を見た時、「狐が憑いた」というより「パーソナリティ障害の一種」と決めた方が安心感があり、いかにもという感じがするでしょう。それと同じです。

でもお迎え現象とせん妄は明らかに違うものです。

なにより、お迎え現象は、意識がはっきりしています。その上で、死んだ誰かと会った、しゃべったと言っているのですから、これはもう、せん妄とは別物です。

 

私も、両親や親しい人を亡くしていますが、いずれもお迎え現象を体験しています。

母の場合。

眠っていたら、腰のあたりをトントンと軽く叩かれて、目が覚めたとのこと。しかし、腰に触れる手首と指先は見えたけど、すぐに消えてしまった。その時、隣室のテレビが急に音を出し始めたので、消しに行った、というものでした。「ああ、あれは誰だったのかしらねえ。でも、誰かが迎えに来てくれたんだわ」とその様子を教えてくれました。私も否定することなく、もしまた同じことがあったら教えてね、と言いました。母はすでに余命宣告を受けていて、それは亡くなる2ヶ月前のことでした。

それからひと月後、また同じことがあったというのですが、相変わらずはっきり誰とはわからない。でも、手の様子から女性だったこと、すでに鬼籍に入ったふたりの姉と仲が良かったことから、姉たちだったのではないか、と言っていました。

父は、それより前に亡くなっていますが、ある日、天井を指さして、誰かと会話している様子を見ました。少し興奮していたことと、すでに言葉が明瞭ではなかったこともあり、誰が来たかはわかりませんが、それがお迎え現象であったことは確かでした。

私自身、母の実家が田舎の古いお寺育ちであったため、この世とあの世が近い所で育った気がしています。そのせいもあってか、お迎え現象のことは知らなくても、両親の様子はすんなり納得ができました。

何より、死が近くなったときに、誰かが迎えに来てくれたら、そんな心度強いことはありません。実際、お迎え体験をした後の患者は、一様に「落ち着いた」「痛みがやわらいだ」「死が怖くなくなった」と答えているのですから。

 

先の調査では、お迎え体験は、病院より家庭で過ごしているときに多く見られたといいます。家にいる安心感もありますが、病院で、もしそんなことを口に出せば、頭が変になったと思われたり薬を増やされたりすることを恐れたから、という人もありました。

 

このブログのテーマに沿っていえば、楽に死を迎えるためには「お迎え体験」を持つこと、と言ってもいいかもしれません。そのためには、最期は安心できる場所と人が必要ということになるでしょう。

死のイメージ化―具体的に想像してみる

2001年に発表された論文で、「死に至るまでの経過」が紹介されています。

図で示すと次の3つに分類されます。

 

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まず、①。これは、がんなどで亡くなる場合です。ほかと比べると、割に長い間機能が保たれますが、最後の1~2か月くらいで急速に機能が低下し、死に至るケースです。

 

次に②.こちらは、心臓や肺の病気の末期を表しています。悪くなったり良くなったりを繰り返しながら、徐々に機能が低下し、最後は急な経過をたどります。

 

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そして、③です。老衰に代表されるケースですが、ゆっくりと少しずつ機能が低下していくパターンです。

 

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実際は、すべての人が①~③のどれかに当てはまるわけではありませんし、例外もあるでしょうが、あくまで一般的平均的な「死へのプロセス」を単純図式化したものとお考えください。

身近で、死にゆく人と接したことがあるなら思い出してください。

その人はどんな病気で、どんな風に最期を迎えたのか―。

私の母は、大腸がんが再発したとき、余命半年と言われました。大腸がんは予後の良いがんですが、再発となると少々厄介なものです。思ったよりがんの進行が早く、みるみるうちに痩せていき、口からモノを食べることができなくなりました。できなくなったというより、食べたら閉塞を起こして死ぬから食べてはだめと病院側から言われてしまったのです。

そこで、鎖骨あたりから持続的な点滴を入れて、そこから栄養を投与する方法を選びました。自宅で過ごしていたので、毎日訪問看護師が来て処置をし、時々在宅の医師が診察をし、薬局からは薬剤師が痛み止めを持ってきてくれました。食べることができないだけで、あとは至って元気ですが、やはり徐々に弱っていくのは目に見えてわかりました。

最後は、高熱を出し、意識がもうろうとなったので、救急車で病院へ運んでもらいました。なるべく自宅で過ごし、もう限界となったときに病院へ行く、というのはあらかじめ本人が決めたことでした。搬送された病院では、意識がはっきりしているときもあればほとんど昏睡状態にあるときもあり、そして入院5日目に亡くなりました。これはケース①です。

一方、父は色々な病気を持ってはいましたが、明らかに③の経過をたどりました。原因はわからないけれど、少しずつ痩せが目立ち始め、食べることができなくなり、全体の動きが鈍くなりました。最後まで意識も知能も明瞭でしたが、延命医療は拒否していたので、まさに枯れ木のごとく、静かに亡くなっていきました。

繰り返しになりますが、例外はあるものの、病気で死を迎えるにあたっては、多くは①②③のどれかに当てはまるのことが多いように思えます。

 

なぜ、このような話をするかといえば、現在は病院や施設で死を迎えることが多いため、人が死ぬところを観察することがなかなか難しいからです。これは極めて残念なことです。

楽に死ぬためには、死に対する恐怖を消さなければなりません。恐怖を覚えないようにするには、死ぬとはどういうことか知らなければなりません。死を知らずにして死を恐れないというのはとても困難だと思うからです。

 

いわば死のイメージ化です。

もちろん、どんな風に死を迎えるかは誰にもわからないことですが、家族歴や既往歴を見直してみれば、確率としてどんな病気に罹るのかは、あらかじめ推測ができます。

家族にがんが多ければ自分がそうなる可能性は高いし、心臓や脳卒中の人が目立つようならば、これまた自分も同じ病気になるリスクは増大するでしょう。ヘビースモーカーなら、がんも心臓病も覚悟しておかなくてはなりません。

恐怖を打ち消すためには、恐怖の対象をよく知っておく。

これは、楽に死ぬためのルール、第一歩といえるでしょう。