安楽死と尊厳死
先ごろ、脚本家・橋田寿賀子さんの「安楽死宣言」が話題になりました。
ズバリ!「安楽死で死なせてください」のタイトルで新書も発売されています。
多くの人が、無駄な延命治療は避けたい、と口にする時代になり、橋田さんのような願いを明らかにする人が出てもおかしくはありません。好意的な気持ちで受け止めていましたが、最近、橋田さんは「安楽死はあきらめた」「日本では難しそう」と公の場で話すようになりました。
いったい、これはどうしたことでしょうか。
まずは、マスコミにおいても使い方が混乱している「安楽死」と「尊厳死」について、きちんと押さえておく必要があります。
今年2月、カトリック教徒の国イタリアで尊厳死を認める法律が施行されたニュースが報じられた際に、読売新聞が両者の定義に触れていますので、それを紹介しましょう。
読売新聞によれば、
「尊厳死」は、患者の意思に基づき、生命維持治療の停止や不開始により患者を自然に死に至らせること。
「安楽死」とは、苦痛を訴える患者に医師などが致死薬などを提供することで死期を早めること。
…となっています。
つまり、尊厳死は、まさに無駄な延命治療をやめて、患者を自然に死なせてあげましょう、という意味。一方、安楽死は、人為的に(医師によって)死期を早めてしまうこと、になります。
さらに付け加えれば、尊厳死があくまで自然に死を迎えるのに比べ、安楽死はわざわざ死に至らしめるための操作を施すことで不自然な死という含みを持ってしまうのです。
橋田さんは、単に皆に迷惑をかけたくない、その時が来たら自分で納得した上で死んでいきたいという思いを表明しただけのこと。つまりは尊厳死を望んでいたのです。
このコラムは、最終的に「楽に死ぬための必要条件」の提供を目的にしています。そこに至るまでの、死をめぐる様々な状況について考えてみようと、色々な視点でテーマを設定して書き綴っています。
一口に「楽に死ぬ」といっても、それがどういう意味か、は人によって異なっているであろうことも視野に入れて書き進めています。
「安楽死」を目指すのではなく、「楽に死ぬ」ことを目指す。
そう考えれば、橋田さんの主張も決して非難されることはないはずです。
橋田さんの著書「安楽死で死なせてください」に「ディグニタス」というスイスの団体が登場します。日本では「自殺ほう助団体」とか「尊厳死ほう助団体」と訳されています。
正確には「自殺をほう助することによる尊厳死を目指す団体」と言うべきだと思うのですが、それはさておき、日本では違法とされる「安楽死」ができるとみなされ、世界中から注目を集めていて、橋田さんもその著書の中で、死ぬときはスイスのディグニタスに行きたいとはっきり述べているのです。
楽に死ぬことを追求するために、引き続き、この「安楽死」について、もう少し考えてみたいと思います。