「無駄な治療を受けない」とはどういう意味か?-①
先回は、穏やかに死んでいった僧侶たちの死に際を紹介し、彼らに倣って往生するための条件を4つ提示しました。今回は、その中のひとつ、「無駄な治療を受けない」とはどういうことかを考えてみたいと思います。
病気は、治療すれば必ず治るという前提で行われるわけではありません。もちろん、歴史のある治療方法は、過去の膨大な経験則に基づき、副作用も含めて情報が充実しており、治るという確信のもとに行われることがほとんどです。
ところが、病気の機序そのものが複雑で、かつ治療法も多彩な現代にあっては、なかなか先が読めないケースがままあります。がんはその代表で、ひとくちにがんといってもその「顔つき」は患者によって大きく異なり、治療の効果の現れ方も一様ではありません。
また、「無駄な治療」というとき、現在では、「無駄な延命治療」を意味することが多いようです。ここでも、楽に死ぬための条件として挙げたのは、まさに終末期における治療について、でした。
近年、「無駄な延命治療は受けたくない」と口にする人が増えました。かつて、治らないとわかっていても、人工呼吸器を付けたり持続点滴をしたり、あらゆる方法で延命を図った時代がありましたが、そのような過去の事例から、意識がなくベッドに伏したままで終えていくなら、苦しい治療はもう嫌だ、という気持ちが起こるのは当然といえます。
ところが、このような要望に対し、病院側の対応は極めて冷酷です。病院は治療をするところだから、治療を拒否するなら、ここにいる必要はない、というのが病院側の言い分なのです。さらに、そのことを患者や家族の気持ちを慮って丁寧に説明するのではなく、ろくに顔も見ないで、じゃ出て行ってください、と突き放すようにして告げる医者も珍しくないようです。
残念ながら、病院側の言い分はその通りなのです。病院とは、治療をするところであり、看取る場ではないということを病院側は言っているのにすぎません。無駄かもしれないし、患者にとっては苦痛かもしれないけれど、できるだけのことをしてなるべく延命を図るのが病院の仕事です。
だからこそ、患者である側がしっかりと見据えないといけないのです。
見据える? 何を?
「自分の散り際」を、です。
どんな状態でも生きていたいと思うのも良し、
でも、回復する見込みがないなら、どこかの時点で治療を受けないという選択肢もあり、です。そして、楽に死にたいのなら、私は後者を選ぶことをお勧めしたいのです。
といっても、末期の際に強い痛みに襲われることがままあります。楽に死にたいのですから、そのような痛みを消す治療はしてもらわなければなりません。それは、病気を治す治療ではないにしろ、患者にとっては必要な治療ですから、無駄とはいえません。
がんの告知にしろ、患者に真実を告げない時代は終わり、患者の意志や発言に医療者側が耳を傾けるのが当然の時代です。
自分の余命を知り、できる限りの治療(病気を治すための治療)を納得するまで受けたら、
あとは運を天に任せ、苦痛の除去のみに専念し、静かに死を待つ―。
その「見極め」と「度胸」こそ、楽に死ぬための心得のひとつといえるのではないでしょうか。