植田美津恵の「楽に死ぬための10の方法」

医学博士・医学ジャーナリスト 植田美津恵の書き下ろしエッセイ。月に1~2回連載します。

ピンピンコロリは本当に幸せ?

1980年代から、「ピンピンコロリ」の言葉を耳にするようになりました。もとは、長野県で健康長寿体操が考案された際に、北沢豊治氏が日本体育学会に「ピンピンコロリ運動について」と題し発表したのがきっかけとか。

「元気で、はつらつとして毎日を過ごし、病気で苦しむことも寝たきりになることもなく、ポックリ死ぬ」のが理想的とされ、一時はブームのようにこの言葉が流行しました。略してPPKともいいます。

 

長野県は、かつて脳卒中などが多かったのですが、減塩運動などで見事その汚名を克服し、日本一長生きの県として、名を馳せました。県内には、ピンピンコロリを願ったぴんころ地蔵もあります。2000年に介護保険が成立するまで、介護は家の中で、身内だけで解決するのが当たり前でした。ピンピンコロリに期待する裏側には、長い年月、介護で苦労した嫁たちの声なき声が聞こえてきそうでもあります。

 

でも、本当にピンピンコロリで死ぬのがいいのでしょうか? ピンピンコロリというのは言い換えれば「突然死」のことです。

 

高齢の方が口にする言葉に「人に迷惑かけたくない」というのもあります。ピンピンコロリには、自分も苦しまないけど、周囲の人の手を煩わせたくないという願いも込められているようです。

 

でも、本来、人間は共同体の中で生活をし、助け合い支えあって生きてきました。40万年前に地球上に生存していたネアンデルタール人の頃から、人は集落を作って暮らしていたことがわかっています。

 

そうであるなら、人は誰かの助けを借りなければ生きてはいけず、支えあうのが当たり前のはず。現代があまりに便利にできているために、ひとりで生きていけると勘違いしているのではないでしょうか。それは人間の傲慢というものです。

 

「誰にも迷惑をかけずに死にたい」ということばを聞くと、現代社会のつながりの希薄さや冷たさ、自分だけで生きていくのが当然という、うすら寒さを覚えます。

迷惑をかける、かけないのではなく、支えあっていくのだと表現を変えれば、また違う視点で物事が見えるのではないでしょうか。 

 

病気になること、認知症になること、寝たきりになること、それがそんなに不幸な事でしょうか。

人間なら誰しも病気になり、歳を取っていきます。それが不幸などという認識を持つこと自体、おかしな話だと思うのです。

もし、そのような事態が不幸だというなら、そう感じさせる社会がおかしいと思わなければなりません。現代人の感性が変だと反省せねばなりません。

 

100歳になった方が「ピンピンコロリで死にたい」というのは理解できます。大往生を遂げたと誰もが口を揃えて言うことでしょう。

でも、まだ若くこれからという人々が同じセリフを吐くのは、どこかこの世の中がおかしいのです。自分がそんな死に方をした時に、周りの人々がどんなに悲しむか。やり残したことや行ってみたかったところがたくさんあるはずなのに、すべてが突然無になってしまうのです。

病気になるより、そのほうがどれだけ悲しく残酷なことか。あっという間に苦しむことなく死ぬ、そこには自分だけ楽ならそれでいいという、自分勝手な願いが見え隠れしています。

 

「いつ死んでもいいように毎日を精一杯生きる」ということと、「ピンピンコロリで死にたい」ということは別の話です。

 

楽に死にたい方法=ピンピンコロリで死ぬ、ではありません。

人生で遭遇する悲しい出来事や辛いこと、愛する人を見送った虚無感や喪失感…、生きていく上で避けられない事柄すべてを乗り越えて、そして今度は穏やかに自分の死を受け入れ、死を迎える…。

 

楽に死ぬということはそういうことだと思っているのです。

本物の緩和ケア!しかも在宅で!!

今月(2018年十二月)の二十六日、国立がん研究センターは、がん患者の4割近くが、亡くなる前のひと月間、「痛みがあった」と答えたアンケート結果を発表しました。調査の対象は遺族たちで、看取った家族の様子についての回答をまとめたものです。

 

あらら…。がんの痛みに耐えながら亡くなる事態はかなり減ったと思っていましたが、そうではなかったようです。今なお、痛みを感じながら死んでいく人がこれほど多いとは。またそれを端で見ている家族の立場に立てば、やはりがんは怖い、死ぬのは恐ろしいと思ってしまうのは当然でしょう。

 

この記事を読んで、真っ先に私の脳裏に浮かんだのは、在宅型ホスピス「はなみずきの家」でした。

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「はなみずきの家」の外観

「願いの車」を運営している株式会社タウの提携先である「はなみずきの家」。私はその代表である大井真澄氏を訪ね、在宅型ホスピスの実際を見てきたばかりでした。

 

大井さんは、十一年前に父親を末期がんで亡くしました。病院から見放されたために在宅で最期を看取ったのですが、その際「苦しい苦しい」ともがく父親の姿に大変なショックを受けたそうです。その強烈な体験が、末期のがんの方々を「自宅にいるような自由な時間の中」で、「病院で過ごしているような医療・介護への安心感」のもとで過ごさせてあげたいと考え「なはみずきの家」をオープンしました。大井さんのご主人が医師でクリニックを開業したのを機に、末期がん患者に特化した訪問診療と賃貸住宅を始めたのです。

 

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「はなみずきの家」代表の大井真澄氏

最初は、とても苦労なさったとのこと。色々な病院を回り、患者を紹介してもらうよう根気よく声をかけ続けたそうです。徐々にその熱意が伝わり、今では川越と浦和にある「はなみずきの家」は、常に満員状態。賛同してくれる病院や医師も少しづつ増えていきました。

 

病院で、もう手の施しようがないと言われた患者たちが集まってくる「はなみずきの家」、ついつい暗いイメージを抱きがちですが、それが大きな思い違いであることは訪問してみればすぐにわかります。部屋はすべて個室で、まるでビジネスホテルのよう。中庭にははなみずきの木が植わり、降り注ぐ光の中で患者たちは思い思い過ごしています。住宅街の一角にあるためか、施設というよりおしゃれな邸宅風のたたずまいです。

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中庭のはなみずきの木

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患者の部屋

病院ではまったく食事が摂れず死を待つばかりだった患者たちが、この「はなみずきの家」では、自宅にいるかのように食事を口から食べ、他の患者やスタッフとコミュニケーションを取っている、それは彼らが末期がんであることを忘れてしまうくらいの変貌ぶりです。

 

残念ながら、末期がんであることに変わりはないために、余命が伸びたとしても、やはりいつかは亡くなっていきます。でも、大好きなウナギを食べ、アルコールやタバコも夜更かしも自由。のびのびとした生活を送った後は、強い痛みを訴えることも誤嚥を起こすこともなく、穏やかに眠るように亡くなっていくのだといいます。 

 

「はなみずきの家」で過ごす方々の中で、数人が「願いのくるま」を利用し、いずれも大変満足なさっています。そしてその数日後、楽しい最期の思い出を抱きつつ、あの世へ旅立っています。

 

これこそが本物の緩和ケアのあるべき姿です。

死が近いことを知りながら、残りの日々を悔いなく楽しく生きてこそ、はじめて死は怖くなくなるのです。 

 

 

冒頭の調査結果を踏まえ、国立がん研究センターは、心身の苦痛を軽減する緩和ケアについて、医師に知識不測があったり、病院の体制にばらつきがあったりすることが背景にあるとみているとのこと。

でも、お気づきでしょうか。「願いのくるま」も「はなみずきの家」も、医療関係者ではない人々の発想です。

 

知識や病院の体制に問題があるのではなく、患者への思いに大きな違いがあるのではないでしょうか。

病院は病気を治すところ。確かにそうです。でもその先に死があること、患者の人生を尊重することを、そろそろ真剣に認める時が来たのだと思います。

日本にもありました!「願いのくるま」

以前、このブログで、ドイツの「ラスト・ドライブ」をご紹介しました。日本にもこんな取り組みがあったら、と思っていましたが、なんとありました!日本版「ラスト・ドライブ」が。

 

何気なく、朝、NHKのニュース番組を見ておりましたら、末期のがん患者を希望の場所に連れていく、という内容の放送が流れました。もしやこれは、あの、ドイツで行われている「ラスト・ドライブ」と同じではあるまいか、と目が釘付けになり、驚くやら嬉しいやら…。

で、早速、「願いのくるま」という名称で活動をしている会社に連絡をし、訪ねてみました。

 

「一般社団法人 願いのくるま」の母体は、「タウ」という自動車関連の会社で、埼玉県大宮駅に隣接したビルに本社を構えています。「タウ」の事業をホームページで見ると、車の買取・販売・輸出・オークション、とあります。「願いのくるま」の活動は、その名の通り車は必要だけれど、タウの事業には医療や福祉の気配は微塵も感じられません。

いったいどういうこと…?

 

タウは、主に事故車を取り扱っています。もともと、会社の業績が安定したら、社会に貢献できる事をしたいと考えていたという社長の宮本明岳さんによれば、車を扱うことに慣れている自分たちができること、それが「願いのくるま」だったと言います。それまで、交通事故で半身不随になった方などとの接触もあり、目の前で苦しんでいる人や終末期を迎えつつある人のために何かできないかと考えたそうです。「車」と「終末期の人」と「社会貢献」のドッキングが、この「願いのくるま」を生んだのです。

 

社内でスタッフを公募したところ思いのほか多くの人が手を挙げてくれ、嬉しかったとも。そのひとり、佐藤由季さんはまだ若く、瑞々しい女性です。

しかし、これまで医療や福祉とは何の接点もありません。病院や高齢者が暮らす施設に片っ端から電話をしても、ケンもホロロの扱い。医療や福祉の世界は教育分野と同様に、閉鎖的で外部の人を寄せ付けない雰囲気を持っているのです。

 

その中で、「願いのくるま」に賛同してくれるホームホスピスをようやく探しあてることができました。私が偶然見たNHKの番組は、このホスピスで最期を迎えようとしている女性を取り上げたものだったのです。

 

2017年度から準備をはじめ、現在は、酸素ボンベなどを備える民間の救急車を用い、ナースを同行させ、患者が希望する場所に連れていく、という活動がようやく軌道に乗ったところなのでした。「願いのくるま」で、母校のバスケットボールの観戦をした人、シーパラダイスへ行ってイルカと泳いだ人、コンサートへ行った人、それぞれ最期の願いを果たして、心穏やかにあの世へ旅立っていかれました。

 

タウの社員の平均年齢は33歳ととても若い。しかも本社は女性が4割を占めています。国籍も色々で、ほとんどの会社が言葉だけの、「ダイバーシティ」を、タウではきちんと実践しているのです。

これは私の印象ですが、懐の深い会社は、人種や性別にこだわらず社員が働きやすい環境を作っています。しかし、いわゆる「ブラック」と呼ばれる会社は労働条件のみならず、一部の人だけが得をし、性別も偏っている傾向にあります。社会貢献など考えていない会社が多いのではないでしょうか?

 

今のところ、「願いのくるま」は1都6県にとどまっていますが、今後は東海エリアにも拡大していくとのこと。メディアで取り上げられる機会も増え、今後益々注目を浴びることになるでしょう。

 

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左から佐藤 由季さん、願いにくるまの理事でもある宮本 明岳さん、広報の岩永 若子さん

 

次回は、引き続き「願いのくるま」やタイアップしているホームホスピスを取り上げてみたいと思います。

「死」への恐怖に打ち克つために…。

「死」が怖いのは何故でしょう。

 

未経験のことだから。

死んだらどうなるのかわからないから。

自分がこの世からいなくなってしまうから。

死ぬときに痛みがあったり苦しんだりするから。

 

…などという答えを多くの人が口にすると思います。

 

「死」が怖いと思うことや何故怖いのかを考えてみたりする、例えばその「考える」ことを止めてしまったらどうでしょうか。

考えたり想像したりするから怖いのであって、それらをシャットアウトしてしまったら、もう「死」は怖くなくなるのではないでしょうか。

 

考える能力が衰えるというのは認知能力の低下です。

記憶、見識などの力が徐々に落ちていき、しまいには自我そのものが喪失する。

今や、400万とも500万人ともいわれる認知症の症状がまさにこれに当たります。

 

少々古いデータですが、平成22年のアンケート調査結果によると、「あなたにとって一番怖い病気は何ですか?」の問いに対し、一位はがん、二位は脳卒中、そして三位は認知症でした。メディアでも認知症が取り上げられることが増え、あんな風に自分のこともわからなくなってしまうのは恐ろしいことだ、と考える人が増えたのかもしれません。

 

認知能力が低下していくのは病気といえば病気ですが、老化現象でもあります。加齢に伴い、認知症患者は確実に増えていきます。70代前半の認知症患者は4%を占めますが、80代の後半では40%にも増え、95歳になれば80%の人が認知症です。歳を取れば、誰もが認知機能が衰えるのは当たり前のことなのです。

 

考えることができなければ「死」への恐怖はなくなります。

自我がなくなればやはり「死」への恐怖はなくなるのです。

 

認知症の悲惨なところばかりが目についてしまうかもしれませんが、そんなことはありません。

私の父は、晩年、内服薬の過剰投与で一時的に認知能力がかなり低下してしまいました。

そんなある日、部屋の片隅に置いてある消火器を抱きかかえて何やらつぶやいている姿がありました。よく聞いてみると、私の名前を呼びながら何かを語りかけているのです。どうやら、小さくて赤い消火器が幼い娘(私)に見えていたらしいことがのちにわかりました。そんな父の姿は家族の笑いを誘い、しばらくは家の中が温かい雰囲気に包まれたものです。

 

しっかりした統計があるわけではありませんが、精神科に勤務する看護師さんたちがよく口にするのは、精神病患者はがんが治る、ということです。

もちろんすべてではないにしろ、患者さんたちは心の病の苦しさでいっぱいいっぱいの状態。がんの宣告をされても、それどころではないのか、がんについて悩むことをしないようなのです。つまり、がんであることを忘れてしまうのですね。忘れてしまうということは、考えることもないのです

 

「死」を恐れないためには、「死」について考えないようにすること。

 

無茶なようですが、あながち外れているとも思えません。

「無駄な治療を受けない」とはどういう意味か?-②

ひとくちに「無駄な治療」が、具体的に何を意味するのか、あらかじめ知っておくことも大切です。

今回は、ずばり!「無駄な治療」(延命治療)を挙げていきたいと思います。

 

この場合、対象者は「終末期にある患者」です。つまり、末期のがんなど、すでに死期が近づいている場合です。

 

①「呼吸停止時の挿管や人工マッサージ」

死期を迎えた患者は、呼びかけても反応がなく、呼吸は下顎呼吸(息を吐く時間が長くなり、徐々に呼吸の回数も少なくなります)となり、そのうちに呼吸が止まります。そのような時に、無理やり挿管をして気道を確保し、人工呼吸器をつける…、意味がありません。また、患者の上に乗り、心臓部分を強く圧迫する人工マッサージも必要ありません。

 

②「昇圧剤や輸血投与」

終末期の患者は、死が近づくにつれ、血圧が下がり、脈は触れなくなっていきます。だからといって、血圧を上げる昇圧剤や輸血をするのは、無駄な治療以外何ものでもありません。

 

③「吸引」

自分では喉にからんだ痰を吐き出せないために、管で定期的に痰を取る吸引。これもただ患者を苦しめるだけです。

 

④「高カロリー輸液の点滴」

死の近い患者に栄養を与えて何になるのでしょう。

 

⑤「胃ろう」

これについては、賛否両論あります。私の身内も、胃ろうのおかげで数年間生きることができた、と喜んでいましたから、「無駄」といわれることに反発を抱くかもしれませんが、あえて私は「無駄」とします。

 

⑥「経鼻栄養」

④⑤⑥は、同じ意味があります。口から食べられなくなったので、点滴や胃、そして鼻にチューブを入れて栄養をただ体内に入れる行為です。

私ごとですが、父が亡くなったとき、長い闘病生活だったにも関わらず、父の体には傷ひとつ、穴ひとつありませんでした。それは無駄な延命治療をしなかったことの証だと思っています。

最後は、血圧がゼロ、つまり測定不可能という状態にあっても尚、まだ意識がありました。話すことはできませんでしたが、しっかりと周囲を見据えつつ、静かに横たわり、そしてその数時間後に息を引き取りました。

 

母の場合は、死期が迫っていてもまだ元気でしたから、本人の希望もあって高カロリー輸液を行いました。しかし、口から食べることは一切禁じられ、母は「食べられないのは地獄だ」と言っていました。

いよいよ最期が近づいたとき、意識はもうないのに、定期的に吸引をしようとするナースに対し、「やめてください」とお願いしました。吸引しないと、痰が詰まって息が止まりますよ、と言われましたが、それで結構です、と伝えました。痰の吸引は、とても見るに堪えません。たとえ、それで死期が多少早まったとしても、この判断は良かったと今でも思っています。

 

これまで誰かの最期に立ち会ったことがあるなら、それがどんな最期だったか、患者にとって苦痛で無駄な治療はなかったか、一度考えてみることをお勧めしたいと思います。

「無駄な治療を受けない」とはどういう意味か?-①

先回は、穏やかに死んでいった僧侶たちの死に際を紹介し、彼らに倣って往生するための条件を4つ提示しました。今回は、その中のひとつ、「無駄な治療を受けない」とはどういうことかを考えてみたいと思います。

 

病気は、治療すれば必ず治るという前提で行われるわけではありません。もちろん、歴史のある治療方法は、過去の膨大な経験則に基づき、副作用も含めて情報が充実しており、治るという確信のもとに行われることがほとんどです。

ところが、病気の機序そのものが複雑で、かつ治療法も多彩な現代にあっては、なかなか先が読めないケースがままあります。がんはその代表で、ひとくちにがんといってもその「顔つき」は患者によって大きく異なり、治療の効果の現れ方も一様ではありません。

 

また、「無駄な治療」というとき、現在では、「無駄な延命治療」を意味することが多いようです。ここでも、楽に死ぬための条件として挙げたのは、まさに終末期における治療について、でした。

 

近年、「無駄な延命治療は受けたくない」と口にする人が増えました。かつて、治らないとわかっていても、人工呼吸器を付けたり持続点滴をしたり、あらゆる方法で延命を図った時代がありましたが、そのような過去の事例から、意識がなくベッドに伏したままで終えていくなら、苦しい治療はもう嫌だ、という気持ちが起こるのは当然といえます。

 

ところが、このような要望に対し、病院側の対応は極めて冷酷です。病院は治療をするところだから、治療を拒否するなら、ここにいる必要はない、というのが病院側の言い分なのです。さらに、そのことを患者や家族の気持ちを慮って丁寧に説明するのではなく、ろくに顔も見ないで、じゃ出て行ってください、と突き放すようにして告げる医者も珍しくないようです。

 

残念ながら、病院側の言い分はその通りなのです。病院とは、治療をするところであり、看取る場ではないということを病院側は言っているのにすぎません。無駄かもしれないし、患者にとっては苦痛かもしれないけれど、できるだけのことをしてなるべく延命を図るのが病院の仕事です。

 

だからこそ、患者である側がしっかりと見据えないといけないのです。

見据える? 何を?

「自分の散り際」を、です。

 

どんな状態でも生きていたいと思うのも良し、

でも、回復する見込みがないなら、どこかの時点で治療を受けないという選択肢もあり、です。そして、楽に死にたいのなら、私は後者を選ぶことをお勧めしたいのです。

 

といっても、末期の際に強い痛みに襲われることがままあります。楽に死にたいのですから、そのような痛みを消す治療はしてもらわなければなりません。それは、病気を治す治療ではないにしろ、患者にとっては必要な治療ですから、無駄とはいえません。

 

がんの告知にしろ、患者に真実を告げない時代は終わり、患者の意志や発言に医療者側が耳を傾けるのが当然の時代です。

 

自分の余命を知り、できる限りの治療(病気を治すための治療)を納得するまで受けたら、

あとは運を天に任せ、苦痛の除去のみに専念し、静かに死を待つ―。

 

その「見極め」と「度胸」こそ、楽に死ぬための心得のひとつといえるのではないでしょうか。

楽に死んでいった先人たちー仏教者たちの最期

楽に死ぬためのひとつの方法として、苦しまずに死んでいった過去の人々の死にざまを知る、というものがあります。

かつて、家で死ぬのが当たり前だった時代には、死ぬ有様を自分の目で見ることができました。でも、今や90%前後が病院施設で終焉を迎える時代。なんと医療従事者でさえ、人の死ぬのを見たことがないという人が珍しくないと聞きます。

 

死ぬ間際のことを詳しく記録されたものはそれほど多くはありません。まして、庶民についてはまずわからないでしょう。ただし、高貴な身分の者、歴史上有名な人についてはしばしば臨終の様子が文字として残されています。

医療が未発達の時代には、どのようにしたら極楽に行けるか、苦しまずに死ぬにはどうしたらよいか、の知恵を仏教の教えに求めた時代がありました。そこで今回は、庶民たちに往生の教えを流布してきた仏教者たちの終末期の様子を紹介したいと思います。

 

念仏さえ唱えれば往生できると説いて庶民から圧倒的な支持を得た法然法然の師であった源信、そして法然の弟子であった親鸞も、当時としては長寿で、しかも臨終時は苦しむ様子がなかったことが知られています。

 

源信は、仏教の経典から往生に関する文書を集め「往生要集」として著しました。どうしたら極楽往生できるか、を具体的に示したわけです。私が「楽に死ぬためにはどうしたらよいか」を書き綴るのとすこし似ています。いつの世も、楽に逝きたいと願うのは同じなのですね。

 

法然は、源信の教えをさらに発展させ、それまで極楽往生するには難行が必要だとする源信に対し、易行でも良しとしましたが、両者とも念仏を唱えることが往生への道だとする点は同じでした。さらに法然の弟子である親鸞は、念仏も必要ない、ただひたすらに阿弥陀仏様を信心することで極楽往生できるとしたのです。

 

3人のそれぞれの主張はともかく、ではそんな3人がどんな最期を遂げたのかを見てみましょう。

 

極楽往生するときの準備を詳細に説いた源信は、自分の最期を悟り、まず体や衣を洗い、鼻毛まで抜いて阿弥陀仏像の指に結わえた糸を手に取り、苦しむことなく入滅されたとあります。体を清めたのは、穢れた場には仏さまが迎えに来てくれないと信じたためでした。享年76歳。

 

法然は、枕を北にし、顔を西に向け、ひたすら念仏を唱えながら眠るように往生した、との記録があります。80歳のときでした。源信法然も現代並みに長生きであったことに驚かされます。法然は、弟子たちから阿弥陀仏様の指に5色の糸をかけ、もう一方の端を法然の指に結わうよう促されますが、それを拒んだといわれます。

 

さて、親鸞は90歳でその生涯を閉じました。高熱が出ても、当時の医療や看護を拒否し、やはりひたすら念仏を唱え、最期に「わたしが死んだら、鴨川に入れて魚に与えよ」との言葉を残し、静かに旅立ったのです。

 

この3人の共通点を考えてみましょう。

まず、3人とも高齢であったこと。自分の死が近いことを悟ったこと。ひたすら自分の信じる往生の方法(念仏)を貫いたこと。 

そして、何より当時の医療を受けていないこと、です。

 

彼らから学べることは次のように要約できます。

 

「みずからの死を悟ること」

「覚悟を持つこと」

「信心すること」

「無駄な治療をうけないこと」

 

この中で、現代の私たちにとって最も難しいのは「無駄な治療をうけないこと」でしょう。

 

次回からは、この点をもう少し詳しく考えてみたいと思います。