植田美津恵の「楽に死ぬための10の方法」

医学博士・医学ジャーナリスト 植田美津恵の書き下ろしエッセイ。月に1~2回連載します。

お迎え体験を待つ

お迎え体験、あるいはお迎え現象を知っていますか?

死期が近づいたときに、すでに亡くなった自分にとって近しい人が、迎えに来てくれるという体験です。

医師や社会学者らが2007年に行った有名なアンケート調査があります。

遺族を看取った700人に対し、「患者が、他人には見えない人の存在や風景について語ったり、感じていたりした様子はなかったか」と尋ねる調査票を送ったところ、366人から返答がありました。そして、そのうちの42.3%が「あった」と答えたのです。

具体的には、(死んだ祖母が)ひとりでブツブツ誰かと話しているので、誰と話しているの?と聞くと「死んだおじいさん」と答えた、とか、亡くなった両親が部屋の隅にいた。あるいは、7年前に死んだ友達が来てくれた、などなど。すでにこの世にいない人が身近に来て、語り合ったり、触れたりしたというものでした。

皆さんは、どう思うでしょうか?

そんな事はあり得ない?

夢でも見たんでしょう?

薬で幻覚が見えたんじゃない?

…でしょうか?

実際、医療界の間では、「せん妄」といって、お迎え現象は亡くなる前の意識障害のひとつとみられていたのです。医療に携わる者の最も良くない思い込み…、それは、目の前で起こっていることや患者の発している言葉が、馴染みのない、わけのわからないものの場合、それらを病気の症状として片づけてしまうところです。

例えば、急に人が変わったように振る舞う人を見た時、「狐が憑いた」というより「パーソナリティ障害の一種」と決めた方が安心感があり、いかにもという感じがするでしょう。それと同じです。

でもお迎え現象とせん妄は明らかに違うものです。

なにより、お迎え現象は、意識がはっきりしています。その上で、死んだ誰かと会った、しゃべったと言っているのですから、これはもう、せん妄とは別物です。

 

私も、両親や親しい人を亡くしていますが、いずれもお迎え現象を体験しています。

母の場合。

眠っていたら、腰のあたりをトントンと軽く叩かれて、目が覚めたとのこと。しかし、腰に触れる手首と指先は見えたけど、すぐに消えてしまった。その時、隣室のテレビが急に音を出し始めたので、消しに行った、というものでした。「ああ、あれは誰だったのかしらねえ。でも、誰かが迎えに来てくれたんだわ」とその様子を教えてくれました。私も否定することなく、もしまた同じことがあったら教えてね、と言いました。母はすでに余命宣告を受けていて、それは亡くなる2ヶ月前のことでした。

それからひと月後、また同じことがあったというのですが、相変わらずはっきり誰とはわからない。でも、手の様子から女性だったこと、すでに鬼籍に入ったふたりの姉と仲が良かったことから、姉たちだったのではないか、と言っていました。

父は、それより前に亡くなっていますが、ある日、天井を指さして、誰かと会話している様子を見ました。少し興奮していたことと、すでに言葉が明瞭ではなかったこともあり、誰が来たかはわかりませんが、それがお迎え現象であったことは確かでした。

私自身、母の実家が田舎の古いお寺育ちであったため、この世とあの世が近い所で育った気がしています。そのせいもあってか、お迎え現象のことは知らなくても、両親の様子はすんなり納得ができました。

何より、死が近くなったときに、誰かが迎えに来てくれたら、そんな心度強いことはありません。実際、お迎え体験をした後の患者は、一様に「落ち着いた」「痛みがやわらいだ」「死が怖くなくなった」と答えているのですから。

 

先の調査では、お迎え体験は、病院より家庭で過ごしているときに多く見られたといいます。家にいる安心感もありますが、病院で、もしそんなことを口に出せば、頭が変になったと思われたり薬を増やされたりすることを恐れたから、という人もありました。

 

このブログのテーマに沿っていえば、楽に死を迎えるためには「お迎え体験」を持つこと、と言ってもいいかもしれません。そのためには、最期は安心できる場所と人が必要ということになるでしょう。