植田美津恵の「楽に死ぬための10の方法」

医学博士・医学ジャーナリスト 植田美津恵の書き下ろしエッセイ。月に1~2回連載します。

世界の「安楽死」

気鋭のジャーナリスト、宮下洋一氏の「安楽死を遂げるまで」は、安楽死が認められている世界各国の安楽死の実際をルポした力作です。恐らく、これほどまでにリアルな安楽死を描いた著書はほかには見当たりません。

 

スイス、ベルギー、オランダ、スペイン、アメリカ(一部の州)、日本…。ただし、日本では安楽死は認められていないので、過去に患者を安楽死させたとして罪に問われた医師たちを取材しています。

 

スイスでは、安楽死を希望する患者に、鎮痛麻酔薬を混入した点滴を打ちます。ストッパーがかかっているため、針を刺したときには薬剤は体内に入っていきません。患者がみずからストッパーを外すことで、薬剤はたちまち体内に吸収され、あっという間に死に至ります。このように、患者がみずから命を絶つことを助ける方法は、「自殺ほう助」と呼ばれています。

 

安楽死が認められている国であっても、簡単にそれができるわけではありません。膨大な書類を事前に用意する必要があり、また本当に死を迎えてもいいのかという確認作業が何段階にもわたって続けられます。中には、安楽死に強く反対する医師たちもいます。

 

宮下氏は、安楽死に立ち合い、ほんの数分前まで楽しかった思い出を語っていた女性が、みずからの意思で帰らぬ人となることに激しく動揺します。彼はそれを「他人に見守られながらの自殺」と表現しています。そして氏は、自分にできることはなかったのか、彼女の行為を止めることをしなくて良かったのか、と後悔と自責の念に駆られるのです。

 

また、オランダでは、親しい人々と最後のパーティを開いた後、麻酔系の薬と沈静系の薬を医師の手によって注射され、心停止に至った男性が登場します。こちらは、医師による注射で命を絶つことから、「積極的安楽死」と呼ばれている方法です。

 

安楽死を望むのは、がん患者ばかりではありません。精神疾患や難病、うつ病の患者が安楽死を選んでいます。そして、氏は丹念な取材を続け、そこに至る背景と残された家族たちの赤裸々な声を次から次へと書き綴っていくのです。

 

いずれも、安楽死の現実と宮下氏の率直な思いが詰まった、とても「濃い」内容です。

 

いまは死に関心がない人も、いずれ死から逃れられないことを悟ったときに、手に取ることをお勧めしたい一冊です。

 

宮下氏は、日本最初の安楽死事件として、1991年に起きた東海大安楽死事件を挙げています。まだ若き医師が、苦しむ患者の家族に強く頼まれ、やむなく塩化カリウムを注射し死に至らしめたとされ、殺人か否かと騒がれた事件でした。家族の証言との不一致や齟齬などがあり、結果的にこの医師は、懲役2年執行猶予2年の有罪判決を受けました。

医師が直接手を下した安楽死事件として、大きな反響を呼んだ事件ですが、一時的に盛り上がった安楽死をめぐる議論も、いつの間にか尻切れトンボで終わったしまった感があります。

 

医師によらない、家族の手による安楽死をめぐる裁判は過去にもあり、そのひとつが1949年の「母親殺害事件」と呼ばれているものです。

 

脳卒中で全身が動かなくなった母親に執拗に頼まれ、青酸カリを飲ませた息子が殺人罪に問われた事件でした。この母親は在日朝鮮人で、戦後国に帰ることを楽しみにしていましたが、病気でそれが叶わなくなり、生きる希望を失ったのです。これは安楽死ではなく、嘱託殺人であるという検察側の言い分と、あくまで安楽死だと主張する弁護側が法廷で激しく闘いました。

 

この息子には、懲役1年、執行猶予2年の判決が下されました。

安楽死を論じる法律がなかったために、刑法の枠組みの中で論争が繰り広げられた結果でした。

 

当時は、これほど長寿の国になるとは想像がつかず、安楽死を国レベルで考える土壌のなかった時代です。戦後の復興と経済の発展を必死に目指していた頃のこと、この事件を深く掘り下げて国民の関心を喚起させるには至りませんでした。

 

それから70年、今ようやく、私たちに、自分の生き方や死に方を考える余裕ができたといっても過言ではないでしょう。

 

いいか悪いかという類のことではありません。

結論は出ないにしろ、「死に方を自分のこととして考える」―それがいま私たちに問われているのだと思います。